「お客様の感想」
ひとり文芸ミュージカル「乙姫ーおとひめさまー」
2018年8月 観世能楽堂公演

前回公演にお寄せいただいた感想をご紹介いたします。

稲坂良比呂 (香の伝道師・劇作家)
「乙姫-おとひめさま」公演、快挙です。伝統、能舞台の約束事、制約の中でシンプルに美しくまとめ上げられたと思います。(能舞台にお機能判約を逆手にとって、という) 人類が文明を持った古代から人類は共通のテーマを持っています。私たち(いのち)は、どこから来て、どこへ行くのか? 大地の民は大地を母を、海の民は海を生命の生まれたところと。そこから世界共通の古代神話、伝説、物語が生まれ○○へと○○○がれました。浦島伝説も、まさにその根源のひとつ。それを「万葉」と「藤村」を手がかりに真正面から取り組まれた神尾憲一さんの発想の卓越。敬服です。ただ、難しかったと思うのは、本来は浦島側から描くと人間の想い、悩み、弱さから人間ドラマが構築できる。しかし、この舞台はあえて永遠側(代表に乙姫)から語っているので「人間側の真情を自ら語れない」という作劇上難しい○○にになります。が、そこにあえて挑戦したのが「乙姫-おとひめ」でしょう。この舞台に願うこと…。永遠の生命と死にゆく生命を歌う乙姫の○一曲(物語る歌では無く)がもっと繰り返され終演後に観客がそのメロディーと歌詞の一説を覚えてしまい口ずさみたくなる。そのような一曲ずつを一作品毎に舞台資産として置かれ集積される行くことを願うものです。
山田勝仁 (演劇ジャーナリスト)
渋谷・松涛から移築され昨年オープンした観世能楽堂。ビルの地下三階にあり、エスカレーターで地下深く下りていくことになり、幽玄の世界に迷い込んだかのよう。この作品は、万葉集「浦島伝説」に登場する乙姫に焦点を当てて作られた作品。 昔話として誰もが知っている「浦島太郎」の物語ではあるが、高橋虫麻呂による万葉集の歌では、愛の残酷さを歌っている。海で釣りに夢中になるあまり、人界と異界の境を越えてしまった太郎が、海神(わだつみ)の娘である乙姫と出会い、夫婦の契りを結ぶ。乙姫にいざなわれ、常世の国まで一緒に行き、永遠に愛し合う。しかし、「ちょっとの間だけ家に帰って父母に事情を話し明日にでも帰ってこよう」と村に戻ると、そこは荒れ果てた世界。乙姫との約束を破って玉手箱を開けてしまった太郎は、もがき苦しみながら息絶える。一方、島崎藤村の詩「浦島」は、二人の運命の出会いを少年と少女の出会いとして現代的に描く。乙姫も浦島と共に現世で生きようとする。

竜の宮荒れなば荒れね  捨てて来し海へは入らじ 
あゝ君の胸にのみこそ  けふよりは住むべかりけれ

この二つの作品をベースにして描かれたもので、乙姫は戯れに亀の姿となって浦島の前に現れるが、子供たちのいじめによって難儀するところを少年・浦島に救われる。やがて成長した乙姫は少女の日に見初めた浦島の前に現れ、彼を永遠の国へといざない、共に愛をはぐくむ。しかし、3年は瞬く間。故郷の父母が気にかかる浦島は、ひと目あって事情を話し、再び乙姫の元に帰ることを誓うが…。常世の3年は現世の300年。両親はもとより、村も人っ子ひとりいない荒地に。単に、月日が流れたのではなく、愚かな人間が海も山も川も、自然界をその欲で汚し、自ら世界を破滅させたのではないか…と思わせる。乙姫・浦島の物語は人類の愚行である戦争への戒めや、人間の罪業を想像させる。能舞台というシンプルな素舞台に浦島を象ったオブジェのみ。前口上、歌、踊りなどで、二人の女優(柳志乃、鳴門瑶姫)。源川が十二単を思わせる和洋折衷の着物姿で歌い、沖縄舞踊を取り入れた舞を踊る。時空を超えたような静謐な美がそのまま移動してきたように、和装姿の高齢の女性たちが多数。
米田佐代子 (平塚らいてうの会 会長)
ビルの中に立ち並ぶファッションやフードショップをかき分けて地下に降りる能楽堂というのも不思議ですが、たどり着いてみれば静寂そのものの一角。公演中は撮影禁止故、お許しをもらって無人の能舞台をパチリ。白河のときはなかった橋掛かりもちゃんとあり(あたりまえ!)しんとして開幕を待ちました。さすがに囃子方や地謡は登場しませんが、場をつなぐ女性役者が二人登場、これが効果的でしたねえ。瑠々子さんはわずか2年半前のときとおおちがい、すっかり「オトナ」になって衣装も「十二ひとえ」のように裾を引き、しみじみうたいあげるあたり、これは能舞台に負けないというか「使いこなした」というか、まことにアッパレと言いたい雰囲気でありました。これは、瑠々子さんの精進のたまものだと思いますが、脚本(スミダガワ ミドリ)の改訂版の成果も大きいと思いましたね。前回も主題はハッキリしていたのですが、今回はそれが能舞台で演じられることによってきわめて明確に提示された、という気がします。「浦島伝説」を万葉集の高橋虫麻呂以来、竜宮城の乙姫の言いつけを守らず玉手箱を開けてしまった浦島太郎が罰を受けるという「因果応報物語」とされてきたことに異議を申立て、島崎藤村の『落梅集』にでてくる「浦島」によって「壮大な古代のロマン」をうたいあげた作品に仕立てたというのです。藤村の詩によれば、乙姫は浦島に向かってみずから「わだつみの神のむすめの/乙姫とわれはいふなり」と名乗りを上げ「龍(たつ)の宮荒れなば荒れね/捨てて来し海へは入らじ/あ々君の胸にのみこそ/けふよりは住むべかりけれ」と宣言するのです。不老不死の常世の国である竜宮を捨て、限りあるいのちを浦島への愛にささげるという恋の歌です。今回、能舞台にふさわしい所作や衣装、そして解説も含めて、人間のいのちが「限りあるもの」であることを「永遠の生命を授かったはず」の浦島が約束を破ってその「説く件」を失った」悲劇としてではなく、限りあるからこそ自らの意志を追究しようとする乙姫を通じて作者の主題が明確に打ち出された、とわたしは思いました。これが、おりから辺野古問題で「命をかけた」翁長元沖縄県知事の死の1週間前に語られたと言うことを想起するのは、いささか政治主義的でしょうか。舞台で瑠々子さんは琉球舞踊を取りれたという踊りも披露しました。「常世の国」ニライカナイ伝説の沖縄を意識していたことは間違いありません。解説では「争いごとをやめて平和に生きる」ことを願う思いも盛り込んだとありました。いのちは限りあるからこそ、いま生きるいのちを大切にしなければならぬ。そして命は、らいてうが愛した言葉の通り「無限生成」してつながって行く―そんなことまで連想してしまったのは、やはり本物の能舞台で見せてもらったおかげかしら。猛暑の東京で、不思議な静けさと清涼の気分を味わいました。瑠々子さん、スミダガワミドリさん、ありがとう。
花千代 (フラワーデザイナー)
この度の乙姫さま、感動して拝見しました。やはり、物語の時代性と、一人芝居ということが、「シテ一人主義」+ワキ、で構成されているお能と構成に共通性があるため、能舞台での上演は極めて相応しく、よかったです!舞台のあしがかりから、乙姫さまが出てくるときから、観客は海の世界に引き込まれているのが感じられ、又、劇場のときより、海底シーンの効果音が引き立っていました。お能は、すり足でひとまわりすると時空が変わるので、今回の3年が数百年、という竜宮城での時の流れが能舞台ではまったく自然なのでした。また、荒唐無稽なストーリーこそ、お能との親和性があり、もしかして乙姫さまは、劇場より、能楽堂での出し物として、より相応しいのでは?と感じました。神殿のような清清しくも格式のある能舞台では、乙姫さまや、傍女たちの衣装もよく映え劇場でよりは細部が輝き、舞のひとさしも尊麗さを感じました。能楽堂での公演を企画したライトリンクさんのアイディアは素晴らしく、次回は修善寺のあさばの能舞台や鎌倉のかがり火の能舞台上演の機会があれば、ぜひ観てみたい!と妄想がふくらんでしまいました。
荣蓉(えいよう) (中国大使館)
いままで能楽堂での舞台は伝統の能や狂言のほうが多かったが、今回は斬新な舞台を見させて、すごく分かりやすくて、中国人としての私にとっては、いい経験になりましたと思っております。こうしたような伝統物語を現代の表現方法で演じるのはより多くの外国の方を引き寄せられ、もっと日本の魅力を発信できることを信じております。
池毅(作曲家)
三越劇場に比べ、舞台装置は極限までシンプル、演者の動きを立体的にみせていただき新鮮でした。
音響は自然で、装置を観客に意識させない設計はさすが最新の能楽堂だなと思いました。
前口上のお二人のコンビネーションがとても良かったです。瑠々子さんは乙姫が乗り移ったようで神がかっており、その存在感は能楽堂全体を支配していました。能楽堂に媚びる意味ではないのですが、音楽に能の要素を組み入れたバージョンでも聴いてみたかったです。
原壮介(ギタリスト)
とても面白かったです。そして、楽しくもありました。
とても意欲的な取り組みに拍手を送ります。
中野幸一 (着物作家・伝統工芸士)
観世能楽堂、「乙姫-おとひめさま」の舞台本当に感動でした。舞台の瑠々子さんは、瑠々子さんでは無く完全に乙姫でした。そこに浦島太郎が居ない中でどんなふうに一人芝居を演じられるのかワクワクしながら観に行きました。劇の中に引き込まれました。たくさんの観客も涙を拭いながら観てはりました。僕は我慢しました。またお逢いして、ゆっくりお話したいです。
谷口 直人(三越劇場元支配人)
能舞台で拝見するとまた一段と違ってきますね。面白かったです。
照明などなくても十分伝わってくるものがあります。結局芝居でも舞踊でも最終的には飾らないで 見せていくというのが究極の演出になるのでしょう。ぜひこれからも頑張ってください
難しいと思いますが瑠々子さんならできると思います。
国弘よう子 (映画評論家)
観世能楽堂と、乙姫さまのイメージは見事にぴったりでした。ローズちゃんの摺り足の動きも品があって良かったです。一緒に見させていただいた代居さんも、瑠々子さんが、見るたびに上手くなってる〜と言ってました!もちろん私も同感です。
近藤祐司 (NPO法人「漱石山房」理事長)
ひとり文芸ミュージカル「乙姫-おとひめさま」の能演奏は極めて独創性の高い内容を彼女の見事な「歌」と「踊り」を駆使して表現され、誠に感激極まりない内容でした。あの演奏を観察し自らが幻想的な世界に導かれて、改めて自分の存在を想い起こした次第でした。加えてピアノによるバックミュージックの演奏も極めて繊細で実に見事でした。当日の演奏を鑑賞し瑠々子の新たな才能を再発見した次第で今後の成長が楽しみです。
米永栄一郎 (NPO法人「漱石山房」監事)
はたして今回の様な一人芝居が、能舞台にはどうかと思っていたのですが、題材の取り上げ方が良かったせいか、瑠々子さんの美声もあり、意外に能舞台に合っていたというのが印象です。これからも新しい挑戦を期待しています。
石井恵理子 (Jewelry Crest 代表)
お能以外の演目を能楽堂で観るのは初めてでとても楽しみにしていた。その期待を裏切らない壮大なファンタジーの世界を、溢れる表現力と歌唱力とで演じきった瑠々子さんは本物だと思う。ファンタジー故にあとは観る側に解釈を任せてくれる懐の深さは神尾氏の優しさか。高尚なものに触れる前は緊張する。豊富な知識を備えていると2倍3倍と楽しめる。観た後に残る「あの箇所は何を意味していたのか」を探っては何度もそのシーンが蘇って来る。演目の前の先生方のお話も、もう2人の役者の存在もとても良かった。
松田圭子 (静を楽しむ会)
銀座SIXの観世能楽堂にて、ひとり文芸ミュージカル「乙姫さま」を鑑賞して来ました。
能楽堂で能以外のものを観たのは初めて。どんなものになるのかとても楽しみにしていました。
玉手箱を持って現れた乙姫さまは、面箱を持って登場する能「翁」を思い出させました。内容も、意味を理解するというよりは感じ取ることが主体のような表現で、能楽堂によく合ったお芝居だと思いました。乙姫さまを演じられた源川瑠々子さんは、所作も美しく、能楽堂の風格に負けずに、永遠の乙姫さまを堂々と演じられました。ワキのお二人も、かわいいダンスに歌声も素晴らしく、楽しい舞台でした。
学生 (聖心女子大学1年生)
源川さんとお星様たちの舞台、古典的な動きもあれば、軽やかな現代的な動きもあり、どちらの動きもとても美しく、魅入ってしまいました。浦島太郎のお話は、幼い頃、絵本で読んだ内容しか知らなかったのですが、倉持先生にこの舞台の背景となる浦島伝説の様々な描かれ方についてお話しいただいたので、公演中、(今、乙姫様が語っていらっしゃるのは、この作品に元づく浦島太郎/乙姫様の姿だ*)というように、舞台とこれまで様々な形で描かれてきた浦島伝説とを結びつけて、学びとしての面からも楽しく観せていただくことがことが出来ました。現代や過去、様々な描かれ方をされてきた浦島伝説が融合された、素敵な公演を観ることが出来、本当に幸せなひとときを過ごすことが出来ました。素敵な舞台のご紹介をしていただけて、そして、観に行くことが出来て、本当に良かったです。

敬称略